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ヴァイオリニスト 空に飛びたくて| 森 悠子 著

ヴァイオリニスト 空に飛びたくて:森 悠子著

ヴァイオリニスト 空に飛びたくて
春秋社 ISBN978-4-393-93550-7
森 悠子著

森悠子。 教育哲学者、森昭の次女として高槻市に生まれる。
桐朋学園卒業後、渡欧。研鑽を積みつつ、各地各団体で活動。
1988年、リヨン高等音楽院助教授(~96年)
90年、京都フランス音楽アカデミー創設、音楽監督を務める。
97年、長岡京室内アンサンブル設立。
99年、ルーズベルト大学シカゴ芸術大学音楽院教授(~2004年)
2009年、くらしき作陽大学音楽学部特任教授。

上記の経歴を見ただけで、日本人音楽家としては異例にグローバルに活動されてきたことが見て取れますが、本を読んでみるとわかるのですが、実際はもっともっと波乱万丈の音楽人生を送られてきています。
国家、民族、現代楽器、古楽の壁を乗り越えながら、苦労し、しかし夢中になって模索するヨーロッパ生活。ようやく安定したポストに就けたと思いきや最終的には師である斎藤秀雄との約束を果たすために日本に帰国します。
長岡京アンサンブル結成のきっかけが歯医者さんの診療台であったというのは最大の傑作ですが、俗に言う、“お天道様は見ている”というのを地で行っているような方である印象を受けました。

森は、桐朋学園を卒業するときに、小澤征爾など世界的な音楽家を数多く育てた名教師斎藤秀雄から、「ヴァイオリンひとつで世界中どこへでも行けるよ。君は名指導者になれるから・・・・」と言われたといいます。その時は演奏家ではなく指導者?どうしてなのかと思ったそうです。
物事を深く探求し、法則化するような能力。そしてそれを面白いと思いそれに没頭し夢中になれるような性格。それは指導者としてなくてはならない資質なのだと思います。
おそらく森は父親から学者の血を受け継いだのでしょう。因みに、斎藤秀雄の父親も高名な英文学者でした。だから、斎藤が森の指導者としての優れた資質を見抜けたのかもしれません。

彼女は色々な練習法、トレーニング法を開発していきましたが、一例として、「キャパシティ・ビルディング」というものをご紹介しておきましょう。本文からその解説部分を引用いたします。

「キャパシティ・ビルディング」とは何か。後年、オーケストラにも応用することになるけれども、一口に言えば、総合的な音楽学習の能力を伸ばすもので、受講者全員参加型の主体的学習法と言ってよい。
全員参加の形態で一体どんな実践をするものなのか。
ある課題のもとに、生徒を全員集める。一クラス十人だったら十人全員が審査員になる。議長を一人決めて、真ん中に据え、ずらりと並んでいるところで、だれか一人が曲を弾く。議長が「あなたはこの演奏をどう思うか」と一人ずつ感想を聞いていく。一回りしたら、今度は、議長と弾き手を変えて、順繰りに同じようなことを繰り返していく。友達の前で批判されたりすることは、すごく苦しいことである。自分も批評する側にまわる。意見は千差万別で、言う方も言われる方も熱心になる、その間、私と言えば、枠外にいて、その一部始終を見守っているだけだ。
なぜ、こうした方法を思いついたのか。これは、言ってみれば、
人間の螺旋型上昇思考法というもの。いわば「トライアル・アンド・エラー」の発想。人は間違う、どうして間違ったかを修正してまた行う。そのフィードバックがその人を育てるのだ。しかも、だらだらとではなく、意識して行う。
―中略―こうしたことなどがリヨンで始めた「キャパシティ・ビルディング」というもの。自分ながらおもしろい試みであったとともに、そこから教えられることもたくさんあった。演奏する際に、自分が弾いている地点から眺めた自分。
幽体分離ではないけれど、外側から眺めることによって、客観的に別の自分が聴く。人に言われるまで待っているのではない。要は積極的な耳ということだ。さらに、このキャパシティ・ビルディングの利点はもうひとつきわめて重要なファクターを担っている。つまり、これを経験することによって、物事を真摯に受けとめることができる人間に成長することにつながるという点にほかならない。かくて、「演奏は自己判断である」という私の指導のモットーはここから始まって
いる。

日本でも試弾会や弾き合い会などという名称で試験や本番前に門下生が集まって弾くことはあると思います。また、マスタークラスなどでの聴講ということも広く行われていると思います。しかしながら、聴いている人が積極的に演奏者に意見を述べるという場はまずありません。
試弾会においては、まず自分がきちんと弾くことに主眼がおかれていますから、自分の出番までは控室でさらっているでしょうし、弾き終われば弾き終わったで、自分の演奏をひたすら反省するということに終始しているでしょう。
また、マスタークラスでは講師の指導を聴くのが目的ですから、講師が聴衆にでも働きかけない限りは、受講者の演奏に対して意見を述べる場はありません。
だいいち、個人主義の浸透した外人ならまだしも、日本人の性格からして、自分のことを差し置いて他人に意見するのはどうも気がひけるというのが、おそらくごく一般的な感情だと思います。
しかし、森はそれを通して自分を厳しく見つめ直すきっかけを作れることになり、また物事を真摯に受けとめることができる人間になるのだと主張するのです。

確かに音楽に限らず、そういった教育が小さい時から行われていけば、嫌われるのが怖くて本音を言わないような表面的な付き合いの友達関係だったり、俗にいうキレ易い人間も減るのかもしれません。